初飛行 : 1955年10月22日
運用開始 : 1958年5月27日
リパブリック社が開発した戦闘爆撃機
初めて機体内に爆弾倉をもった戦闘爆撃機であり、その爆撃能力は軽爆撃機というジャンルを不要にし「FとBを付け間違えた」とさえいわれた
リパブリック社は1951年に、自社資金でアメリカ空軍向け次世代戦闘爆撃機の開発に乗り出した
設計主任にはP-47 サンダーボルト戦闘機の設計者であるアレキサンダー・カートベリが任命され
P-47の基本的概念を踏襲したAP63をまとめあげ、1952年9月には正式な開発契約とF-105の制式名称で、1955年からの配備開始が決定された
リパブリック社内では、F-84Fの開発と量産遅延に忙殺されており、その影響でF-105の開発にも遅延が生じるようになり
元来は別目的の機体であったF-100・F-101両戦闘機が、戦闘爆撃機として採用・運用された
こうした状況下、同年9月10日にノースアメリカン社が開発していたF-107A ウルトラセイバーが初飛行し
F-105との比較審査が行われたが、元から保険的意味合いしかなかったF-107Aが採用されることはなく
1957年1月にリパブリック社へ対してF-105の正式な発注が行われた
初期量産型のF-105Bは1958年5月27日から引き渡しが開始された
F-105Bは技術的トラブルが比較的少なかったが、アビオニクス関連のトラブルが非常に多かった
アメリカ空軍では65機のF-105Bと17機のRF-105の調達を決定していたものの
後にRF-105があまりに高価となったためキャンセルされ、その後生産はF-105Dに移行した
F-105D初号機は1959年6月9日に初飛行し、1960年5月から引渡しが開始されたが
当初1400機のF-105Dを14個航空団に配備する計画だったもの
アメリカ海軍のF-4 ファントムIIとの機種統一の見地から調達機数は610機に削減され、残りの予算は空軍型のF-4C/Dの購入に回された
実践ではベトナム戦争に参加しており
ベトナム戦争の最初の4年間において、北ベトナムに対する爆撃攻撃の75%はF-105によるものだったが
本機を特徴づける機体内の爆弾倉は通常爆弾の運用には適さず、爆装は外装で行われ爆弾倉は燃料タンクの収納スペースとして用いられていた
また、1964年にはアメリカ空軍のアクロバットチーム、サンダーバーズの使用機として採用されたが
同年5月に事故を起こした事とその直後に発生した別の部隊での墜落事故の二つが理由の一時的な飛行停止処置により早々に使用中止となった
性能諸元 (F-105D)
乗員 : 1名 (F-105C/E/F/Gは2名)
全長 : 19.63m
全幅 : 10.65m
全高 : 5.99m
翼面積 : 35.76m²
空虚重量 : 12,470kg
通常離陸重量 : 16,165kg
最大離陸重量 : 23,834kg
燃料容量:-kg(-L)
発動機(A) : Pratt & Whitney J75-P-19W Turbojet×2基, Dry 14,300ibf (63,74kN) / A/B 24,500ibf (109kN) each
推力重量比 : 0.74
最大速度 : マッハ 2.08
航続距離 : -km
フェリー飛行時 : 3,550km
離陸滑走距離 : -m
着陸滑走距離 : -m
実用上昇限度 : 48,500ft
最大G : -G
武装
固定武装 : M61A1 20mm バルカン砲×1 1,028発
最大兵装搭載量 : 6,700kg
ハードポイント数 : 5
空対空ミサイル : AIM-9
空対地ミサイル : AGM-12
対レーダーミサイル : AGM-45
対レーダーミサイル : AGM-78
核爆弾 : B43 |
派生型
YF-105A | 試作機。2機製造 |
YF-105B | 試作機。エリアルールの採用など。4機製造 |
F-105B | 初期生産型。75機製造 |
RF-105B | 偵察機型。17機発注も計画中止により、JF-105Bに改装 |
JF-105B | RF-105Bから改造された試験用機。地対空ミサイルの試験に使用。3機改装 |
F-105C | 複座練習機型。1957年に計画中止 |
F-105D | 全天候能力を強化。610機製造 |
RF-105D | 偵察機型。計画のみ |
F-105E | D型の複座練習機型。1959年計画中止 |
F-105F | D型の複座練習機型。143機製造 |
EF-105F | F型を敵防空網制圧任務用に改修した型の非公式名称。F型より86機改装 |
F-105G | 敵防空網制圧任務機。F型、EF-105F型より61機改装 |
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